アポカリプス・ハイ タケシ・トラバート

2012年11月28日

【ラクシュマン・ジュラ】.1

前回より つづき


 ……生活は、長くなるにつれ、月齢に支配されてゆく


もちろん掃除に家事洗濯、贖罪と食材の支払いと買い出し、さらに土地独特の風習や多少の言語力も、まあ徐々にではあるが必要とされてくる。
ラクシュマン・ジュラという町が、いくら「冥界への入口」であろうと「特殊な地」だろうと、俗なる世界にも片足を突っ込んでいる以上、しかたがないといえばしかたがない。

他のどんな土地に長居するのと同じように “食ってかなければ” ならない。 “排出” もしなければならない。


ところで、ひとは何をもってして、いや、どのような基準や判断で「旅先」と「生活」をクッキリ分けたりゴチャゴチャに混ぜたりするのだろう。中には両方をうまく共存させてしまえる器用な人間もいるが、うらやましいと思ったことは一度もない。

ただ、よそ者としてその地が「旅先」なのだという感覚から――

とあるポイントを無意識に通過し――
いたって「生活」じみた “地元の人間” として棲んでいる自分にハタと出くわし笑い転げ、
おのれが単なるよそ者以外の何者でもないことに気づいて一瞬シラけ、
しかしすぐまた、極めてグローカルな神秘に歓喜し、漂い、


野菜を育てたり、


収穫したり、


十キロ単位なら安いからとチャパティー用の麦粉入り麻袋を市場から汗だくになって数袋、

肩に、

ボロボロになったサンダル引きずる無我無心の日々へと、次元へと、境地へと、舞い戻り


時より、ほんのささいなことでエゴを取り戻し、「計画」なるものを練る、などしてはみるものの、気づけばまた聖なる紫煙にいぶされ行者たちと朝まで「時空」を共に……


      ◆

通常ならこのような段階を丁寧に踏んで、踏んづけて、踏みしめてゆく、というのが、「流れ」としては正しいかもしれない。が、あくまでも「旅先」も「生活」も「仕事」までもをすぐにゴチャゴチャにしてしまう私自身の勝手な「流れ」である。

ようは筆者が勝手にほざく「流儀」だか口笛だか単なるヘリクツだが(……まてよ、「流儀」だとか「口笛」だとか「ヘリクツ」だとか、いったい何事)


どうして前もって先に書かなかったのか?
いったいいつまでこんなに読みづらくクドくて長ったらしい「業」がつづくのか?
このカルマな「記録」の最後の最後まで、である。

      ◆

ところで私の分身は「流れ」る勢いの、そのあまりに自然な速さにも遅さにも激流にも悠流にも還流にも、どこか呆けた状態で対峙し、心地良よく「居た」。


なにもかもが完全想定外で、頻繁に「何か」に引きずり回され、それらにさえ心地良さを覚えてしまう有り様だった。

ヒマラヤ山系のはじっこに居ながら、なぜかスペインやアラビア語圏やラテンアメリカ専売特許の「アスタ・マニャーニャ(永遠にやって来ない明日にやろうぜ)」「インシャッラー」「時がきて気が向いたら」精神と四六時中、フシドを共にしているかのような感覚につきまとわれた。

   そこへもってきて「シャンティー」である



時という概念がメルトダウンしてる心地良さ。空間というコンセプトにまとわりつく無数のひねり。

不思議なことに、そのどれに対しても違和感を覚えるようなことはない。なかった。これからもないだろう……



グールー(導師)やババとの本当の出会い、心から信頼を置けるソウルメイト、友情関係や敬愛の念、自然界への深い敬服、熱い片想い、正邪を見抜くカンナビスの日々、
       どれもが鮮明に、まるで
 ついこないだのように ―― といっても、実際についこないだなのだが ―― 強く思い出される。



             ◆






posted by タケシ・トラバート at 21:36| タケシ・トラバート